吾妻地方の歴史と吾妻地方の中世城壘

戦国時代の領地統治

 戦国時代の貫高制と兵役

 戦国時代の領地の表示は、石高ではなく貫高制をとっていました。貫高制とは、米の収穫を貫文(金銭)に換算したものです。太閤検地以降の石高に換算すると、1貫文=4~5石と言われています。真田氏の知行は、信州-小県郡と上田地方で9万石(45000貫)、上州-吾妻と沼田で3万石(15000貫)となります。

 川中島の戦いで有名な、真田家の主君武田家と越後の上杉家の比較をしたいと思います。

 武田家の場合

 甲斐 270000石(67500貫)

 信濃 405000石(101250貫)

 兵力は

 甲斐 6750人

 信濃 10125人

 総兵力 16875人

 武田家の兵役は、騎馬1に対して歩兵8と(騎馬1、歩行武者2、足軽6)なりますので(この兵役を見ると、此が正しければ武田の騎馬隊は存在しなかったことになります。

 当時馬が唯一の乗り物で、大変貴重な物だったと思います。)また、北条氏の軍役は50貫文につき、騎馬武者一人、旗持一人(歩行武者)、鉄砲持一人、槍持二人となっていたようです。ということは、合計五人と言うことになります。

 ここでは、武田の軍役で計算したいと思います。また、この軍役は外征の時の兵力であり自国の防衛(籠城戦)の時はもっと多かったと思います。

 また、江戸時代の兵役は一万石に付き250人程度でした。ここではこの軍役を基に人数を割り出しました。また、騎馬武者と歩行武者、歩兵(足軽)の割合は武田家の軍役を元に割り出しています。

 食料も、一日一人あたり玄米一升と決まっていたようです。また、馬の食料も決まっていたことでしょう。

 騎兵 1875人 歩兵 15000人となります。

 この全兵力の内荷駄隊などに三割程度さかれますので

 荷駄隊など5000人 戦闘兵力11875人となります。

 一方上杉家の場合

 越後 441000石(110250貫)

 兵力は 11025人

 騎兵 1875人 歩兵 9800人

 全兵力の内荷駄隊に3000人 戦闘兵力8025人となります。

このうち信濃の北部の豪族は、上杉謙信に与力していましたので信濃の内で兵力2000人ぐらい上杉方となるでしょうから、武田家と上杉家の兵力は拮抗します。

 更に本国に兵力を多少残さなければならず、川中島の戦いでは戦闘兵力5000人程度で武田、上杉両軍とも戦ったのではないかと推測されます。

 それで戦闘は、農閑期のみで農繁期になれば軍を撤退しなければならず、結局の所決着が付かなかったのもうなずけます。

 籠城戦の時はまたこの兵役とは違い、実例を挙げますと「豊臣秀吉の小田原征伐」の時関東の北条氏は兵役最高齢75才で6万人(小田原城籠城軍)を集めました。

 普通は、六十才以上と女子供は「足弱」と呼ばれ戦力には入れないのですが、籠城の時はこのような「足弱」も戦力に入っていたのかも知れません。
 
 各支城の兵力を合わせると延8万人に達するでしょう。北条氏の石高は200万石弱ぐらいですので、此が戦闘兵力だとするとだいぶ無理をしたと思います。

 この時、北条氏は自国での守り(本城支城共に籠城戦略)の戦略だったので外征の時と違いだいぶ多く兵力を集められたと思います。

 真田幸隆(幸綱)が、吾妻に侵攻したとき武藤喜兵衛尉(真田昌幸)率いた800人が真田本隊で、暮坂峠から侵攻した真田信綱の隊2000人(真田本隊は300人程度)は、ほとんどが武田の与力衆だったのではないと思います。

 北条の軍役で行くと、真田幸隆の吾妻侵攻の時の領地は加増2000貫でした。この軍役ですと、200人となります。これはちょっと少なすぎますので、武藤喜兵衛尉(真田昌幸)と矢沢頼綱(幸隆の弟)の隊が800人ですのでこの兵力が本隊として、領地は8000貫ぐらいの領地があったのでしょう。多分吾妻と上田地方を合わせて10000貫(五万石)、そして吾妻東部の地がだいたい2000貫(一万石程度、江戸時代の石高は二万石程度)だったのでしょう。

 一方、斉藤氏の兵力1700人は、白井長尾氏と沼田氏援軍1200人、斉藤氏及びその与力衆500人でした。たぶん斉藤氏直属の部隊はそのうちの、200~300人程度でその弱い立場がうかがえます。

 また、真田昌幸の軍役を見ますと「加沢記」に3000騎(~騎というのは騎馬の数です)とあります。真田の領地は昌幸の時代は、江戸時代の真田本家と沼田分家をあわした領地を管理しておりました。したがって、吾妻、沼田で30000石、上田地方で90000石有りましたので軍役は、

 兵力3250人 騎兵361人 歩兵2889人
 
 内荷駄隊1000人 戦闘兵力2250人となります。ほぼ「加沢記」の記述と合っています。ただし、~騎は騎馬武者の数で実際は3000人の事で騎馬と歩兵の合計のことだと思います。ですから、上記の3000騎はまるが一つ抜けて300騎が正しい数字だと思います。

 最後に、其の頃の領地について解説します。

 田んぼは1反=500文、畑は1反=150~200文であったと言われています。1貫は4~5石といわれていますので、田んぼ2反で1貫、畑5~7反で1貫となります。真田幸隆が信濃先方衆で、砥石城攻略で約束された領地は2000貫です。田んぼ2反で1貫ですのでその領地は、4000反ということは400町ということになります。広さで言うと、4K平方メートルということになります。また、畑等も混じっていたでしょうし、荒れ地、町、山間部なども混じっていたので更に広い範囲だったでしょう。また、山林の木なども江戸時代には何石という風に数えていましたので、それも合わせると山間部でもかなりの上がりとなることでしょう。

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 戦国時代の背景

 平安時代末期、鎌倉時代末期そして室町時代末期の戦国時代、また江戸時代末期など時代の変わるときは必ず、大なり小なり天候不良による飢饉や疫病が流行していたようである。

 特に戦国時代は、天候不良による農作物の不作、疫病などがひどく各地で郷士同士や村同士、守護大名同士の戦闘が絶えず、大なり小なり全国各地で争い事が絶えなかった時代でした。

 かの義将上杉謙信にしても、上州に何度も出陣していましたがそれも食料の略奪、人さらいなど何でも行いました。だいたい多くの足軽達は、農民でしたので軍役を課せられるメリットは、敵領地のおいての乱取り(略奪)と人取り(一話さらって奴隷として売買する)における収入でした。

 人取りに関しては、一人あたり五貫文から十貫文ぐらいで売買されていたようです。

 これは戦国大名一般すべてに当てはまることでもありました。武田氏、後北条氏も又しかりで、武田氏に至っては、自分の幕下となっている郷士の領地においても、米以外ならば調達(乱取り)してよいという朱印状も残っているようです。つまり、戦国時代のおいては自国を守るだけでは食べていけず、他国を侵略し続け無ければ生き残っていけない時代だったと言うことです(戦国前、中期)。

 室町時代の初期、各守護大名は京都では室町、関東では鎌倉に常駐していた。しかし室町幕府の支配が弱くなり出すと、各地方の郷士は独立性を強めた。特に、京都での応仁の乱、関東での永享の乱以降各地方の郷士は、独立性を強め中央(室町幕府)の影響力は次第に弱くなっていった。また、地方の守護家においても、家督争いなど出勢力が弱まった大名もあり、世はまさに下克上の時代に入っていった。

 其の頃の地方と言えば、鎌倉時代以降各村単位で郷村(惣村)という組織を作り村同士の利権によって同盟を結んでいたようである。この事から水利権、または土地の所有権を巡り戦が起こっていたようです。各村に軍事担当の者が現れた。また、室町幕府からその家臣が新たに領地を拝領しても、その地に軍を派遣し軍事力によってその地の郷村に対して領有を認めさせなくてはその支配を確立できなかったようである。

 応仁の乱以降、守護大名はその任国に下り軍事力によってその地の支配を確立していったと思われる。その支配力は軍事力によって各郷士を従わせていただけであり、軍事力が崩れたとき支配力は失われる。したがって戦国時代はすべてのことが軍事力であって、その強弱によってその支配範囲が決まっていたのでしょう。この吾妻(斉藤氏の支配地)の地においても、沼田の沼田氏、箕輪の長野氏、渋川白井の長尾氏と領地を接しておりしばしば小競り合いがあったようである。

 上野(群馬)の守護は関東管領山之内上杉氏であったが、その支配力は大変不安定であり軍令が出れば各郷士は上杉氏に従うが、普段は独立して各地統治支配していたのでしょう。そんなところが、江戸時代の封建制度(支配体制)と違うところだと思います。

 そしてその隙を武田氏に突かれ、武田の配下の真田氏による吾妻侵攻につながったと思われます。真田氏の統治時代になると、海野兄弟の独立性を許さず真田氏により滅ばされ、吾妻の鎌原、斉藤(斉藤越前の一族で斉藤氏本家ではない)、富澤、湯本、浦野、横谷の各氏は真田の家臣団として組み込まれていったのでしょう。

 真田に攻められたときの、岩櫃の三回に及ぶ攻防戦においても吾妻の諸氏は最初斉藤氏に従っていました。しかし、鎌原、湯本、浦野、横谷氏など元々滋野一族で真田氏と同族の諸氏が多く次第に切り崩され斉藤氏の没落となりました。このことは、鎌倉時代以来続いていた、各村の独立性(各郷士の独立性)を持った支配体制を脱却できなかった、つまり軍事力の支配が斉藤氏において崩れたことが起因していると思われます。

 其の頃の村落は惣村といって、各村落は武器を持っていてその村の代表は郷士としてその土地の領主に土地の領有を認めてもらい、その代わり何かあるときには兵役や城の造作、修理などを行っていました(これを夫役という)。

 この関係は、江戸時代の封建制度のように固定されている物ではなく、他国から攻め込んできた領主に対しても土地の領有を認めてもらえれば従う、というような曖昧な関係でした。

 武田氏を背景にこの吾妻の地に真田氏が攻めてきたとき、多くの郷士は真田氏に付いてしまいました。この事は、この吾妻の地に真田氏と同じく滋野氏を祖とする郷士が多かったことと、斉藤氏の勢力が今ひとつ弱かったことなどが原因していたのかもしれない。

 また、武田氏、北条氏、上杉氏においてもこの時期各領国の支配体制は確立していましたが、完全な兵農分離がされて居らず兵農分離を確立した中央の織田氏、豊臣氏によって滅ぼされるか一大名となっていったのでしょう。

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 戦国時代の郷士の小さな城

 戦国の時代には各地に小さな城が無数にありました(日本全国で二万とも四万ともいわれている)。現在この吾妻の地にもたくさんあります。私の住む地域にも岩下城、川の向こうに根小屋城、二、三キロ先吾妻渓谷手前にある雁が沢城などがあります。このような城は、当時の記録もなくその城の当時の呼び名は分からないのが現状です。しかし、多くの研究者の努力によりその城の役割がだんだん解明されてきました。

 私の住むところにある岩下城も、小さな豪族(私と同じ姓)の富澤氏の城であったと伝わっているのですが詳細は分かりません。この富澤氏ですが、初め岩櫃の斉藤氏、後に真田氏にしたがった土豪ですが、その一族は沼田真田氏仕え家臣となった人も居たようです。

 この富澤氏の領地(たぶん今の岩下地区)は、私の推察するところですが現在の岩下地区と、もしかしたら矢倉地区も含んでいた地域かも知れません。その領地を見るとたぶん当時の換算で100貫~150貫ぐらいの領地であったでしょう。100貫として江戸時代の石換算で400石程度。江戸時代の旗本で行くとまあまあ大身の方に入ると思いますが、どこかの大勢力に属さないと自領を維持できない程度の勢力だったと思われます(戦闘兵力50人程度)。

 そんな豪族の城岩下城は、結構広く構成されていて一城別郭で作られています。東側の城は梯郭式の城となっていて防護も施され戦闘に適した造りです。西側の城は、本丸と伝わる最高部から北側、西側に腰郭のような形で延びています。この事は、前項でも述べた通りこの頃の戦(現在でも戦争というと同じですが)は、乱取り(略奪)、人取り(人さらい)が当たり前ですので攻められたとき領民の避難場所としても城がその地域の重要な拠点となっていたのでしょう。その領民の避難場所が、この岩下城の造りとして西側がなっていた可能性が高いようです。

 「戦国武田の城」という本にも信州伊奈地方に武田氏が侵攻したときに、小笠原長時に従っていた仁科氏が籠もった小岩岳城には記録に、「打取ル首五百余人、足弱取ル事数ヲ不知」と妙法寺の僧が書き残しているとある。「足弱」とは女、子供、老人のことで、この頃の籠城とは領民全員が城に籠もって戦ったと言うことが見て取れます。

 この吾妻の地に点在する、いくつもの城もいざ戦闘になるとこのように領民全員が籠城できるような構造と広さを持っていたと思われます。

 ここであげた岩下城もたぶんそのような城であったでしょう。そして其の頃の城は、土の城で常に修理を行わなければならず、そこの領民に夫役(夫丸)という形で城の修理を義務ずけて居たということも武州鉢形城の記録にもあり、多分この岩下城も規模は違えそのようにしていたことでしょう。

 この岩下城が、真田、斉藤の攻防戦でどんな役割をしていたか。また、その後真田氏の統治の時代にどのように利用されていたのかが記録になく分からないのが残念で成なりません。

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 大名・領主と村の関係

 戦国も初期の頃までは鎌倉時代以来続いた、村同士のいざかいは村同士、複数の村の連合体同士の戦いによって解決されていました。

 しかし、戦国時代も中期以降になると大大名、たとえば関東で言うと後北条、武田、上杉(長尾)氏などの複数国を領有する大名が発生した。その大名はそれぞれ分国法を作り、その地の領主を通さずその地のいざかいに介入するようになる。それは、その村同士のいざかいを放置しておけば自国領内がまとまらず、自国の戦力低下につながる可能性があるからである。特に関東の後北条氏の場合、目安箱の設置などして、村から直接後北条氏に直訴できたようである。

 この頃は連年の天候不良が続き、飢饉、疫病などが蔓延していたようである。実際後北条氏の年貢は、4公6民と年貢率が軽く、不作の時は年貢免除や種籾等購入できるように借金の棒引きや、複数年の年貢の免除など行われていたようです。時には荒れ地に農民を入れて耕作してもらうときなどもこうした年貢の免除などが行われていたといわれています。

 なぜこのような善政が行われていたかというと、其の頃の村は戦乱に明け暮れていましたので攻め込まれて耕地を荒らされたり、重なる年貢、度重なる夫役(夫丸)により村が立ちゆかなくなると逃散と言って村ごと逃げて他の場所に行ってしまうことがたびたびあったと言われています。となると、大名も収入が減って力が弱まる事となり他国に攻められる原因となるからです。年貢の他にも、役銭、城普請の夫役(戦国時代の城は土の城であったので常に修繕を必要としていた)、戦時の徴兵等などもありかなり村にとっては大きな負担となっていた。城普請の夫役(夫丸)を課すときは役銭を一定額免除、年貢の割引なども行っていました。そうしないと領地が拡大していくと、その勢力を維持できなかったと思われます。

 其の頃の上野国というと、山之内、扇谷(犬懸、詫間の2家共に絶えて戦国の頃はない。)の四家の上杉氏の山之内上杉氏(関東管領家の山之内上杉氏は、上野、越後の守護、扇谷上杉氏は相模と武蔵の守護です。ただし扇谷上杉氏は管領にはなれない家格でした。旧態依然の地方豪族の集合体で、何とか守護という立場を維持していたのではないでしょうか。この山之内上杉氏は、まだ領国体制を確立できず各豪族は上杉氏の家柄だけで服従していました(各豪族は独自で領地を支配)。この後両上杉氏は衰退していきますが、これはひとえに領国支配の確立ができなかったからだと思います。

 後北条氏の場合直接村(惣村)との関係を築いていましたが、山之内、扇谷両上杉氏は領主との関係しかありませんでした。領地支配において後北条氏に劣っていたようです。

 そんななか川越城の戦いで、足利(古河公方)、山之内、扇谷上杉氏の連合軍は北条氏康に破れてついに滅亡していくのでした。関東管領職は、越後の長尾景虎(上杉謙信)が継ぎ上野の諸将はその後上杉謙信に属することとなります。わが地方の吾妻斉藤氏も上杉謙信に属していました。しかし、謙信は十一月~三月まで雪に閉ざされて関東に出陣できず、春は川の増水で攻め込むところも限定されて、その隙に領国支配を確立した後北条氏、甲斐の武田家にだんだん攻め込まれていきました。わが吾妻の豪族斉藤越前も領国支配を確立しないまま、武田の先鋒真田幸綱(幸隆)によって領地を浸食されついに攻め滅ぼされることとなりました(この詳細は前項参照)。其の頃箕輪の長野氏も武田氏に攻め滅ぼされています。

 ここでついに、上野国は武田、後北条、上杉の三つどもえ戦となっていきました。 わが吾妻の地も、武田の領地となり真田氏の統治の時代となります。そして、吾妻の諸氏も真田氏の領地支配に組み込まれ、大戸(浦野氏)、三島浦野氏、鎌原氏、横谷氏、湯本氏、富澤氏、斉藤氏(斉藤越前一岩斎の一族直系ではない)など吾妻の諸氏もその家臣となっていきました。

 そして、武田と織田ー徳川連合軍の長篠の戦いの後、真田安房守昌幸の時代となり更に豪族の家臣化がいっそう進み、岩櫃城代の海野長門守、沼田城代の海野能登守は昔ながらの独立性を保つ治世を進めようとしたが、真田安房守昌幸によって滅ぼされました。

 このことは、戦国武将の領地支配の変化を気づかなかった海野兄弟が、確実な領地支配を目指した真田昌幸によって滅ぼされたと言うことだと思います。まあ、海野兄弟は見せしめにされたと言うことだと思います。この後、時代は封建社会へと進んでゆきます。

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 戦国大名による領国統治の実態

 室町幕府と守護大名

 戦国時代の領国統治を考えると、室町幕府と守護大名の領国統治から考えなくてはならない。守護は当然室町将軍により任命される訳ですが、その支配は国成敗権を室町将軍より認められる訳です。その初期、中期において、支配権は守護代、郡代、国人、惣国一揆まで及んでいた。

 関東では、上杉管領家が関東各所の守護を兼ね越後も上杉氏の守護となっていた。相模、武蔵は扇谷家が守護となり、上野、越後では山之内家が守護となっていた。室町の初期、下野の宇都宮氏が上野の守護と下野半国の守護を兼ねていた。下野は、宇都宮氏と、小山氏が半分ずつの守護となっていました。

 二代将軍義詮と鎌倉公方基氏の懇願によって、失脚していた上杉憲顕が関東管領職に復活して、上野と越後の守護になった。そのとき鎌倉時代に三浦一族と共に没落した、長尾景忠は、上杉氏家宰として上野白井に返り咲いた。弟景恒は、越後上杉氏の守護代として越後国府中に赴任し長尾景虎(上杉謙信)の祖となる。

 少し話がそれましたが、守護大名は荘園を中心としたそれまでの支配体制を脱却して、国人もその枠に入れ、支配体制を確立していった。しかし、国人と惣国一揆はある程度独立していて、その仕組みは江戸時代の封建制度とは明らかに違いその支配体制は盤石とはいえなかった。

 戦国中期ともなると、守護代からその国の領主になる者も現れた。たとえば、越後の長尾氏や出雲の尼子氏などが一例です。

 また、守護から領国体制を確立していた甲斐の武田氏や、駿河の今川氏、周防の大内氏、九州の大友氏や島津氏などがあります。

 ただし、わかりやすく言えば室町時代の初期の守護は、中央から派遣されたその国の警察、裁判所を兼ねたような組織だったと思います。

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 戦国時代、北条氏の領国統治の実態

 一番記録が残っていて、その領国支配が安定していたのは後北条氏です。私の住んでいる吾妻の地は、武田と上杉、後北条氏の境目の地ですが、戦国の貫高制という領地の仕組みを完全に確立していたのは、後北条氏です。

 貫高制というのは、土地の収穫を貫文(金銭)に換算した兵役に適した制度で、後の時代に主流になる石高制とは違った制度のようです。

 五十貫文に付き、馬乗り一名、兵役五名と決まっていたようで、通常の軍役では多少は増えたかも知れませんが、だいたいその位の兵役が平均だったようです。

 この換算は、田一反につき500文、畑一反につき136文から176文ぐらいで換算したようです。また、田畑の開発にも力を入れ開発すれば、その地の年貢を三年にわたって免除すると行ったようなこともあったようです。

 また戦国時代は、戦争による耕作者の欠員などもあったようで、その空き地に新たに入って耕作する者が居ればやはり年貢を数年にわたって免除するような制度もあったと古文書の記録にもあります。

 後北条氏における検地政策

 後北条氏は、検地において5代伊勢宗瑞、北条氏綱、氏康、氏政、氏直の百年、一定の貫高で検地していたようです。その内容は、

1.一反あたり基準貫高を、田地五百文、畑地百六十文(秋成百文・夏成六十五文)としていた。

2.検地奉行を派遣して郷ごとに検地を実施し、田畑面積×基準貫高・郷別の貫高=検地高辻を決定していた。

3.検地高辻より引方(公事免、堤免、井糧、代官給、定使給などを除き定納高=年貢高を算出して、年貢増分は北条氏が没収していた。

4.永正十七年(一五二0)小田原、鎌倉周辺、天正十一・十二年(一五四二・四三)相模国中部、武蔵国南部で検地がおこなわている。これは代替わりの時と同じ年で有り、前者は、宗瑞から氏綱へ、後者は氏綱から氏康へ変わったときである。

 次に検地を記録した文書であるが、「役帖」には「検地辻」「検地増分」「検地増」「増分」「検見辻」などが記載されている。これらにはほとんどに干支が記されていて年代がはっきりしている。

(1)初見が、永正三年これは伊勢宗瑞の代に行った検地だと思われる。この役帖の記載は二つしか無く、一つが小田原衆南条右京亮の所領で「八十一貫九百文」西郡宮地 此内廿三貫三百文とあるのと、北条氏家臣遠山直景の菩提寺延命寺への寺領寄進状である。

(2)次が永正十七年で、これは宗瑞死去に伴う、氏綱に代替わりしたときと思われる。これは相模西郡一帯と鎌倉寺社領で実施されている。

(3)天文元年の検地ではすべて相模国内で、三浦郡浦郷、西郡沖之郷、中郡落畑、東郡本郷木曾分で、四ヶ所とも「増分」があるのが特徴である。

(4)天文五年の検地では、江戸柴崎一跡丸子分と江戸一木貝塚の太田大膳亮所領の二カ所が見える。

(5)天文十一・十二年の検地は、氏綱が死去して氏康へ代替わりしたときである。これは、代替わりに伴う領域検地であると思われる。

(6)天文十九年の検地は、一カ所しか記載がない。これは個別的見地であると思われる。

(7)天文二十一年の検地は、今井郷・西郡今井郷の二カ所の検地である。

(8)天文二十二年検地は、深大寺屋敷分・符田郷新倉与七郎分の江戸廻りから多東郡にかけての三カ所と、東郡吉岡の一カ所が見られる。

(9)弘治元年の検地は、川越三十三郷・入東郡・入西郡・比企郡・吉見郡と言った武蔵国中部における領域検地である。川越夜戦に勝利した氏康は、上杉方の拠点松山城まで接収した。其の新領地の検地である。

(10)弘治二年、弘治三年、永禄元年の検地は、伊豆月ヶ瀬、西郡吉田島、川越仙波日影分の一カ所ずつであるので、個別検地と思われる。

 この後北条氏の検地記録を見ると、年代において領土の範囲が広がっているのが分かると思います。また、個別検地においては田畑の開墾などにより、生産量が増えたと思われる所を検地していったのかも知れません。代替わり以外の検地は、新しく領地を接収したときに行っていたようです。また、太閤検地のような大規模な検地(領地全体)は後北条氏の検地でも行われていなかったようです。

 これは戦国大名後北条氏が、領国統治において他の関東の諸氏より進んでいたのではないでしょうか。他の関東の諸氏においては、相変わらず自己申告制で貫高を決めていたようです。

 東国における検地の実施について

 検地に当たって第一に「案内人」の存在が確認されている。この案内人については、その土地の郷士か近隣の郷士が指名されていたようである。またこの案内人については知行安堵状が発行され、領地が安堵されていたと記録にある。

 第二に検地奉行人が選出されて、二から三名が任命されていたと記録にある。

 第三は、踏立=丈量である。関東の後北条氏の検地において、検地帳に十歩単位で記載されていることから、かなり正確に検地されていたことになります。この事から戦国時代においても後期になると、かなり正確に領土が把握されていたことが伺えます。

 第四は、「百姓請負」がなければその検地は有効にならないと言うことです。検地した土地に対して、その地の百姓が耕作の請負、年貢の請負を承諾して百姓請負を文書として検地帳に添えなければなりませんでした。これは、その頃の人々の流動性を示唆しているのではないでしょうか。いくら耕作地があっても、人がいなくては耕作できないと言うことです。

 そして第五は、検地帳の提出です。百姓請負を付けて検地帳を領主に提出して、改めて「検見」をして、その年度の引き方と年貢方が決められていました。

 戦国武将の検地は、領土全域において定期的に検地を行うまで行っていませんでした。隱田が見つかった地域や新たに領地となった所、または代替わりの時など行っていました。しかしそのすべてにおいて、全領域の検地というのは太閤検地以前では行われていなかったでしょう。また、大大名(武田、今川、後北条各氏)以外の中小大名、各地の郷士はまだまだそこまでの領地の把握は成されていなかったように思われます。

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 吾妻斉藤氏の領国の支配体制

 私の考えでは、吾妻斉藤氏の支配体制は惣国一揆のような物、つまり大小国人が寄り集まって斉藤氏を盟主として吾妻がまとまっていたのではないでしょうか。

 その支配体制は、西吾妻においては、鎌原氏と羽尾氏の二つの大きな勢力があり、東吾妻においては大戸に浦野氏が居りましたが、この浦野氏と縁戚になり、斉藤氏が一族を各地に配置して支配していたようです。

 その勢力は、真田氏によって長野原城までその勢力下に組み込まれていたときに長野原城を攻めた斉藤氏の兵力500人が総動員令に近い兵力のように思われます。その領地の大きさの参考に、江戸時代の吾妻の石高を以下に載せてみます。

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 吾妻郡の石高

 まず最初に、真田安房守昌幸公による吾妻社寺の御寄進について

 和利の宮 七貫文  岩下鳥頭宮 三貫五百文  川戸首宮 五貫文

 川戸七沢 二貫五百文 川戸中里一宮 七貫文  原町大宮 七貫五百文

 原町今宮 五貫文  三島鳥頭 三貫文  我妻明神 五貫文

 林諏訪 六貫文  天王免 一貫文

 吾妻郡 七十九ヶ村

 長井村   四百三石四斗九升九合

 吹路村   四十五石四斗七合

 猿ヶ京   百七十五石二斗九升二合

 湯之宿   五石九斗

 布施村   百八十九石二斗二升九合

 師田村   百五十二石四斗七升九合

 須川町   五百八十二石二斗六升九合

 入須川   三百七十七石八升三合

 赤坂    二百四十六石九斗

 大塚村   三百四石三斗四升三合

 平村    二百十七石二斗三合

 横尾村   三百十八石九斗三升二合

 蟻川村   五百三十五石五斗七升五合

 五町田   二百十四石七斗六升八合

 四万村   二百十四石六斗七升二合

 下沢渡   百六十三石四斗四升

 上沢渡   二百七石七斗九升

 山田村   二百六十二石七斗九升

 折田村   百六十二石七斗九升

 西中之条  百八十九石八斗四升四合

 中之条町  百三十七石四斗二升四合

 伊勢町   二百十九石二斗七升二合

 青山    七十七石四斗五合

 市城    九十二石五斗八升二合

 奥田    百二石五斗八升二合

 新巻村   六十八石

 泉沢    百三十三石三斗五升三合

 小泉    百七十九石七斗三升二合

 植栗    二百七十九石八斗二升二合

 岩井    三百十四石九斗二升二合

 金井    七十六石三斗三升九合

 川戸    三百三十九石二斗三升二合

 厚田    二百七石七斗八合

 三島    四百五十石四斗八升

 原町    四百九十三石

 郷原    百一石七斗九升二合

 矢倉    九十八石四斗五升三合

 岩下    二百三十二石八斗九升五合

 松尾    百二石四斗六升二合

 横谷    五十八石五斗五合

 川原畑   七十五石九斗二升六合

 林村    百二十五石四斗三升八合

 長野原   百十六石四斗三升九合

 日影村   百一石四斗三升九合

 赤岩村   七十石四斗三升九合

 生須    十六石四斗九升二合

 小雨    三十九石六斗二升五合

 草津    百三十石六斗二升五合

 入山    七十八石八升五合

 前口    四十七石五斗五升六合

 立石    二十四石四斗三升

 勘場木   二十四石四斗三升

 羽根尾   四十三石三斗二升七合

 今井    五十二石八斗五升三合

 赤羽根   五十二石二斗九升九合

 西久保   五十二石二斗四升九合

 中井    十九石九斗四升九合

 門貝    四十三石八斗八升五合

 干股    二十二石九斗七升九合

 田代    十六石二斗七升五合

 大笹    百十六石二斗七升六合

 大前    百五十九石二斗八升五合

 鎌原    九十七石二斗二升

 芦生田   百五石三斗三升五合

 小宿    七十三石八斗二升六合

 袋倉    六十八石六斗二升三合

 古森    三十四石七斗三升三合

 狩宿    五十七石七斗五升八合

 与木屋   八十九石四斗六升二合

 荒井    二十二石九斗七合

 横壁    四十四石九斗七合

 河原湯   六十石二斗二升

 岡崎新田  二百三十二石

 箱島    五百五十石

 五丁田   二百六十七石

 須加尾   二百八十七石

 大柏木   二百七十三石

 大戸    千二十石

 以上慶長の古倹石高帳とある。福田屋さんにある古文書記録を「岩島村誌」に載せた物を参考までに載せました。これを参考にすれば、吾妻のだいたいの石高が分かると思います。吾妻郡内の総石高は、

 二万三千八百六石四斗二升三合です。

 戦国の吾妻斉藤氏最大時の勢力は、この石高を三割ぐらい割り引いたくらいだと思います。

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